sametimeme's diary

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決めることを手放したあなたに。

人間は本能的に何かを決断することを恐れる。それは、決断による変化が自分にとってリスクである事を知っているからだ。住居を探して平野やジャングルをさまよった先史時代の我々の祖先より、脈々と受け継がれてきた生き残るための反射のようなものだろう。

決断を恐れる人種はどこにでもいる。また、決断力に優れた人間でも、状況次第では決断が出来なくなるような事もある。例えば、周囲に先に決断されたときや、決断材料が全くない時などである。

だが、決断なしに物事を前進させる事などありえない。決断なしに、プロジェクトが終了する事などありえない。決断なしに、イノベーションが起こることなどありえない。常にそこには推測もつきまとうし、反意も巻き起こるし、判断材料がとても少ない時もある。それでも決めるのが、大人というものである。

決断をしないとどういう人生になるか。

 

例えば勉強するための決断ができない。就職するための決断ができない。結婚するための決断ができない。転職するための決断もできない、お金の使い道の決断もできない。仕事でも使えないしビジネス・パートナーとしても頼りない。決断のできない人は、いうなればワーカーであり消費者であり、弱者である。


 

囲碁将棋には、「次の一手」という概念がある。

局面のスナップショットを見て、次にどういう一手を打つ(指す)のが最善か?という問いに、答えを考えるものだ。他に情報は何もない。ただその状況だけをホイと見せられて、終局までイメージした上でその状況で最善の行為を取る事が求められる。

実は、社会のあらゆるシーンで、様々な「次の一手」に答える事こそが、決断という行動にほかならない。判断材料なんていつもたくさんあるわけではないし、間違いが許されないにも関わらず即断即決が求められる場面なんていくらでもある。

「次の一手」を解くのに必要な情報とは、なんだろうか?

・局面理解力

・局面までの状況推移を推察する推理力

・決着までの見通しをたてる仮説構築力

・見通しを合理的なものにする論理的思考能力

・セオリー(定石)通りの思考をたどる堅実な思考

・セオリー外の手法を探る多角的思考能力

・適切な中間目標設定

・中間目標設定への適切なアクションプラン策定

・アクションプランの確実な実施

…などなど、どれをとっても囲碁将棋に関わらず、実社会での勝負どころの局面を読むのに欠かせない能力、…といえば言い過ぎだが、そういう時に求められる能力にほかならない事がよく分かる。

たまに勘違いしている人がいる。これらの能力は先天的なもので、かつ、自分には備わっていると何故か信じきっている人である。

これらは間違いなく後天的に身につけられるスキルだし、言い方を変えれば身につけようとしないと身につかないスキルである。だから棋士は、多くの天才の中から限られた一握りの天才が、それでもなお血のにじむような努力を重ねた末にプロになっても、やっぱり必死で研究を重ねるし、そこから逃げてはプロ棋士として終わるのをよく知っているのである。

翻って、我々一般人も、こういったスキルは意識して身につけないといざというときに発揮できるようなものではない。例えば、論理的思考力という言葉をきいて、「ああ、自分はちゃんと考えてるから大丈夫だ」とか安心した事はないだろうか?

断言しても良いが、論理的思考プロットというのは、意識して勉強しないと絶対に身につけられないし、応用もできない。上記のような漠然とした想像をしているような人はきっと、「じゃあ、論理的思考力とありますが、これはどういう思考力ですか?」と尋ねられても答えられまい。「論理的でない思考とはどのようなものですか?」「論理的思考とは何を目的としたものですか?」などと訊かれても、さあ、としか答えられないであろう。

多角的思考能力や中間目標設定力というのもまあ、似たようなものではある。漠然と出来ると思われがちなスキルだが、実はきちんと体系的に手法を学び、応用を練習しないととても普段のビジネスシーンで発揮できるようなものではない。

決めることを手放したあなたに。

決められないのは、「次の一手」に正解できない事と同じく、上記項目のような事ができていないから、です。これらを辿った末に苦しみながら下した決断は、成功しようがしまいがその人の血となり肉となり、自信を強めてくれます。これらなくして下さざるを得なかった決断は、あなたが恐れている通り、後悔と恐怖しか生み出しません。何度成功したとしても、成長させてくれる事はありません。

僕は自分の経験から、また、多くの後輩を教育した経験から、裏打ちされた自信があるとき、人は自然と決断ができるようになると信じている。決断できる人は、例えそれが誤りであろうが正解であろうが、それだけで頼もしく映るし、今後の成長を予見させてくれるように感じるものである。

「次の一手」が間違ってたって、新聞の正解をよんで「なんだそうかー」と思うだけ。現実の決断だって、あなたが思うほど周りはその正誤を気にしない。決断できる人だという印象は強く残るので、あまりにトンチンカンな事を言ったりやったりしない限り、きちんとした基礎があれば自信をもって決断をしてほしい。

 

…しかしその基礎という部分について、結局決断するためには、セオリーも知らなきゃいけないし、局面理解の歴史も知らなきゃいけないし、仮説の構築と検証のために数学的思考も必要だし、多角的思考能力を支えるような芸術的センスも必要だし、論理的思考力には国語力が必須だし…。

一朝一夕に身につけられるものではないが、幼いころから学校で身につけてきたような事の延長線上に、強力な決断力、というものが存在すると言ってよいのではないだろうか。学校はただダラダラと算数や国語や美術を教えるのではなく、こういう「次の一手」の局面で、必ず自分を助けてくれる知識や経験を教えているという事を生徒に伝えながら、教えていって欲しいもんだ。