sametimeme's diary

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幼さからの脱却:いい悪いの二元論をいい加減捨てろ

幼い子どもは二元論を語りたがるものである。


例えばウルトラマンや仮面ライダーなどヒーローものの特撮映画では、善人と悪人がとてもわかり易く描かれる。悪人は悪人同士でかたまり、かっこ良く変身する正義のヒーローに敗れ、めでたしめでたしとなるあのシステムである。
いい・悪いという判断基準はとても明快でわかりやすく、多くの人々に受け入れられる便利な判断指標である。何かを説明するとき、説得する時に理論を感情的側面から支えてくれたり、結論を相手に印象付けたりするときにもとても便利なキーワードである。
が、この二元論はとても幼稚なものなのだ。幼稚だから分かりやすいし、幼稚だから感情的である。


他には、戦争の話を子供に聞かせたとする。例として第二次世界大戦を挙げよう。子供はかならずこう訊くだろう、「どっちが悪者で、どっちが味方なの?」と。 これに対する一般的な答えはこうだ。「人種差別を行いユダヤ人を迫害したナチス・ドイツと、中国と韓国に侵攻し、アジアの国々を植民地化しようとした日本が悪者 で、先に原爆を作り日本を成敗したアメリカとイギリスが味方だよ」。幼稚な二元論に対する幼稚な回答であるが、我々が学校で習い、社会の中で目にする回答はおおよそこういった内容で ある。


しかし日本が降伏したのは、あれ以上原子爆弾投下を繰り返されては、国が亡くなると判断したからだ。事実関係が不確かな南京大虐殺という事件はダメで、原子爆弾という大虐殺が正当な暴力であるというのは、例え子供であってもおかしいと感じて当然だ。


大人はだれでも知っている。戦争が起こる時、悪い側と良い側なんて、ありえない のだ。アフリカの内戦も、湾岸戦争も、古くはフランス革命も十字軍も、多くの紛争の当事者にはそれぞれの正義があり、その正義に則って戦っている。戦わな い事はすなわち正義を曲げる事であり、許されることではない。誰も好き好んで殺し合いをするわけではなく、戦争や紛争の多くの真実とは、正義を曲げられな い双方の回避できない衝突点を、武力によって解決するという、一種の暗黙の了解と言える。


もすこし卑近な例でいうと。


例 えば小学校・中学校では、いじめっ子といじめられっ子、というくくりで子供の集団を分ける事ができる。こう書くと誰の目にもいじめっ子が悪者で、いじめら れっ子が正義の味方だと映るが、必ずしもそうではない。いじめられっ子は実は子供同士の秘密を守ったり、感情の共有ができないひねくれた子供で、いじめっ 子はそれらを排除する事で教室の秩序を保とうとするケースもある。


現に、いじめられっ子が被害を先生にうったえて先生がいじめっ子を糾弾すると いうような事件はよくある事だが、この時、必ずしも教室内の全員がいじめられっこサイドに立つわけではなく、いじめられっ子が憎いばかりに先生は騙され てる、勘違いしてると教師に対して不信感を抱くような事もある。いじめられっ子兼嫌われ者、というケースだ。


無論、僕は卑怯ない じめは大嫌いだ。倫理的に間違えているし、カッコ悪い。卑怯なやつらは、全員痛い目に合うべきだと考えている。しかし、時には一部の正当性を含んだ懲罰的 な、もしくは因果応報的ないじめが存在する事も事実である。

いじめは悪、いじめっ子も悪、いじめられっ子は善、といった二元論でいじめ問題に取り組もうと するならば、そもそもいじめ問題を捕える程成熟していない、幼稚な取り組みにならざるを得ないといえる。そんな捉え方では本当に苦しんでいるいじめられっ子を救うなんて、できっこない。だから毎度毎度、同じような事件と同じような解決策がぐるぐると行ったり来たりしているのである。


兄弟間でも同じような事がある。


例えば、ある所に三兄弟がいて、長男は暴力的でいつも他の二人に暴力を振るっては親に怒られていた。次男はおとなしく内向的で、いつも末っ子に食事を分けたりお菓子を買ってあげたり、優しいお兄ちゃんだった。末っ子は長男に怯え、次男を尊敬していた。


ある日から末っ子は同じクラスの友達にいじめられるようになった。学校で数人の友だちに囲まれ、ランドセルを取り上げられそれをサッカーボールのように次々と蹴り回された。と、そこに、いつも優しい次男がたまたま通りかかり、末っ子は助けを求めるように顔を向けた。しかし次男は何も見なかったかのようにそのまま素通りしてしまった。


そこへ、いつも乱暴な長男が通りかかった。末っ子はこの事でまた長男からもいじめられるのではと怯えたが、長男は末っ子がいじめられているのを見るなり顔を 真赤にして、いじめっ子たちに殴りかかった。殴られ、顔を腫らしたいじめっ子達は逃げ出し二度と末っ子に手を出すことは無かった。


こうして末っ子は、次男をどこかで見損ない、長男をどこかで見直すのである。人間は単純に善人と悪人に分けられる二元的なものではない事を、体験的に学習するのである。


いじめから少し話を大きくして、戦争に話題を戻す。


世の中には戦争を嫌悪し、平和活動をする人たちが多くいる。戦争は嫌だ、殺し合いはダメだ、みんな仲良くしましょうという主張である。これはもちろん理想的な事だが、戦争とは仲良くできなかったために起こるものなので、あまり役に立つ内容ではない。戦争はダメ、平和は良し、という二元論に囚えられては、ここで主張が終わってしまう。


二元論を脱却し、戦争は悪であるという前提から放たれる事で初めて、戦争とは何であるか客観的に理解できる。戦争とは手段なのである。片方の正義を通すための手段の一つが交渉であり、武力を伴う戦争なのである。


戦争反対!!というスローガンは、手段に対する反対意見となるが、じゃあ戦争無しに相手国の国民全員を洗脳して、奴隷にするようなシステムが産まれたとしたらそれが平和かというとそうではなく、戦争という手段に反対するのであれば、平和という手段を別途考えなければならず、その新しい手法を戦争の代替として提案する事で初めて説得力を持つ言論となるのだ。

つまり、戦争はいいか悪いか。直感的に考えれば戦争は悪い。が、これは考えが足りていない。戦争で人を殺すことが、殺される事が、もっと言うと人が殺され物が破壊され、悲しむ人が大勢でる事が、問題であり、悪なのである。


現状、この平和はさらなる武力(核兵器)によって実現されている。ここに、いわゆる平和主義者の二元論の限界があり、彼らが忌み嫌う戦争により、戦争が抑止されているというジレンマを、二元論では認めることができない。二元論の世界では、戦争を抑止する、良い戦争など、理論的に存在し得ないのである。


安易にいい/悪いの二元論で物事をとらえる癖をつけてしまうと、早とちりしがちになるし、考えたとしてもどうしてもネガティブ・ポジティブなイメージが先行し、客観性を失う事になる。思考の柔軟性も論理性も失ってしまい、そこで思考がストップし、思考なき結論に引きずり回されてしまう。


二次元の幼稚な二元論のはるか高みから冷静に、三次元的、四次元的に双方を見下ろせばよいのだ。戦争はなくならないしいじめは無くならない。そういう当たり前の事実を当たり前にとらまえた上で、問題に対峙する事が重要なのだ。そうして初めて、解決策のいとぐちを捕える状況が整うのだ。いい悪いの二元論を脱却しなければ、問題にからめとられたまま身動きができずつまらないのだ。


ここから先は無数の手法がある。解決策の検討や決定手法は体系立てて研究されており多数の書籍が出版されているので、ここで語る事ではない。いずれ機会をみてご紹介しよう。


幼い子どもは、二元論を語りたがるものである。しかしあなたはもう、正義の味方など存在しないという事を、知っている。信仰や協調など人により手段は様々であるが、それでもなお情熱と気概と正義とを持ち続ける事に人は汲々とするのである。