sametimeme's diary

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空気など読めない。空気の『妄想』にこそ価値がある。

『空気を読む』という表現があるが、あれはなんとなく誤解を与えると思う。あれはまるで、その場には空気というものが存在していて、それをその場で見て語られていない情報を読み取る…というようなものに聞こえてしまう。

そういう一面もあろう。例えば、全く一人も知らない人達のとても親しい集まりに、何故か突然独りで招集され、参加せざるを得なかった場合、などだ。前提情報何もなしに、内輪ネタてんこ盛りの場に参加するためには、その場で語られる、発見される情報を頼りになんとか空気を読んでいくしかない。

が、多くの場合は違う。

空気とは、読むものではない。妄想するものなのである。言い換えると、読めるものではない。仮説を立て、それを検証する事を繰り返し、最も客観的で事実に近いストーリーを練り上げる、いわゆる妄想という作業の果てに現れる、ただの現象なのである。

例えばどういうことか。

付き合いバレのケーススタディ

友達同士の集まりで大勢で飲んだ後に、誰かがふと、「A子とB君さ、あれ付き合ってるっぽくない?」みたいな感じで発言する事がある。すると口々に、「ああー!確かにこないだ○○って事があった!」「そういえばあの時、A子とB君だけ△△だったよね!」「つーか、B君むかしA子の事かわいいっていってたしw」「ふたりとも携帯チラッチラ見てたよねww」…みたいに、後から後からどんどんと情況証拠が固まっていき、いつの間にか既成事実になるような事がある。

この時、最も『空気を読めていた』のは誰か。言うまでもなく、最初につぶやいた人間である。だがしかし、『情況証拠を所有していた』のは、その人間以外も大勢当てはまる。皆が同じ場所に居た以上、疑いの目で二人を見ようと思えば見れた訳だし、情況証拠を所有している人は皆その事実に気づいても良かった訳だ。

ここで、最初のつぶやき人とそれ以外の人の役割の違い、とは何であるか。

最初につぶやいた人・・・仮説を立てる人

後から盛り上がって情況証拠を出す人・・・仮説を検証する人

 で、ある。

仮説を立てるとは、そこに無いように見える事実を、頭のなかだけで組み立てて行く事である。始まりがあり、終わりがあり、そこに至るロジックがある。これらをうまく仮置きし、そのロジックを考え、つなぎあわせて全体観を確認し齟齬をつぶしていく。これは、創造的な作業(POINTの仮置き)であり、論理的な作業(ストーリーづくり)でもある。頭の使い方を知り、訓練していなければ、とてもむずかしい作業である。

そしてもちろん、検証は遥かに簡単である。事実を持ち出し、それが仮説の証左となるか、反例となるかを判断すれば良いだけだ。当然のことながら仮説が合っていれば検証は全て合うし、仮説が惜しいものであれば、その細かな違いを修正するファクターとなり、仮説2.0はより事実に近いストーリーになる。

最初にA子とB君の怪しさを指摘した人間は、普段からそういう仮説を持っていた訳である。ひょっとすると、そのA子(ないしはB君)に対して恋心を抱いていたのかもしれない。だからこそ、想像力豊かに(言い換えると、激しい妄想により)、正解に近い仮説を導き出す事ができたのかもしれない。この意見を最初に訊いた時にただ「やっぱり~!」とかって盛り上がるだけでなく、『コイツなんでこんな指摘が出来たんだ?』と考え、その真意に迫る人もまた、鋭い人間であると言える。

その場で読める空気などない。妄想を携えてゆけ

空気を読む必要性に迫られた時に、「あたし、ちゃんと空気読めるだろうか・・・」なんて心配するのは、ノーテンキである。なぜなら、そんな空気など存在してくれないからである。

できる事といえば、事前にできる限りの事実収集をし、妄想力豊かに、登場人物の様々なバックグラウンドと関係性を仮説検証し、それらの仮説の検証用に、本番で少しずつ事実を集めながら、より正しいと思われる仮説にしたがって行動していけば良いのである。はたから見ればそれは『空気が読めている人』なのであろうが、実は価値ある部分というのは、その前段階の妄想という所にあるという事実を、我々は心に留めておいても良いように思う。