sametimeme's diary

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美に触れる旅

忘れられない話に、ある末期がん患者の話がある。死期を間近に宣告されたその末期がん患者は、窓の外から見る何気ない木と、その葉が陽光に揺れている様を、この世の何よりも美しいと感じ、あらゆるものが光り輝いて見えたという話である。死とは人生の統括であり、生物としての人間のあらゆる義務と責任の終わりにあるものである。そこにあって人は、ものを強く美しいと感じるというエピソードは、非常に考えさせられるものがある。

そしてこの話が真実であるとすれば、どうやら、死と美は何かしらの因果関係があるらしい、という事が推測できる。美という概念に、死という最も忌むべき現象が因果関係に有るというのは、つまり、美という概念の対象の継続性に関係するのではないだろうか。砕いて言えば、人は、終わるものに美しいと感じるのではないか、という事だ。

人生とは美に触れる旅と、言えはしまいか。

祇園精舎の鐘の声…と有名な詩を引き合いにだすまでもない。盛者必衰は理(ことわり)であり、鐘の声の美しさはその儚さによって想起されるものである。諸行無常の美しさを詠んだこの詩は、人間に美しさのヒントを与えてくれる。同様の詩は他にもある。が、これは人間のみが獲得し得た言葉で、人類全体に流れるテーマの一つのようなものを見事に表している詩である。

いつか必ず人生という旅は終わる。そして、旅とは美しさを求め外に出て、周りを見る行為を指す。近所のコンビニに立ち読みに行くフリーターも、大志を持って世界一種を志す若者も、それぞれ旅なのである。

人が何かを美しいと感じるとき。非常に興味深い現象が起こる。

それは、その人以外の人、時にはバックグラウンドも関連性もなにもない人が、同じものを見て美しい、と同じ感想を抱くことである。

これは何故だろうか?

なぜ、他人が美しいと感じるものを、自分も美しいと感じる事が多いのであろうか。この美しいというクオリアは、一体どうやって人類全体に生まれながらにして備わる事になったのだろうか。フラクタルや黄金比を美しいと感じてしまう我々のクオリアは、どこからきたのだろうか。

答えのない問ではあるが、仮説は立てられる。

人類は、全体として共通の意識をその深層意識の中に共有しているのだ。それは、太古から続く人類のDNAにプログラミングされた反射のようなものであり、何億年もリプログラミングが進んでいく中で、いつしか人類全てが、その部分を深い深いプログラムの中に埋没させてしまってきたのだ。

だから、美しさを感じられない、感じにくいという人もいる。一方で、誰もが驚くほどのあたりまえの事の美しさを再発見し、価値を見出す人もいる。大病が切掛で、美しさを感じるプログラムが一気に噴出する、冒頭のような例もある。

大いなるうねり

全ては、宇宙の中の、地球という惑星で発生した人類という有機体の構成要素が、同じようなルーツを持って進化してきたことによる。人類はテレパシーなどで意識を共有化するという訳ではない。共有化している部分の組み合わせにより、意識が構成されているという、仮説である。その共有化された部分には、種として生き残るために獲得したものも、あろう。しかし、人類とは容易に自己が自己を傷つけ、倒す生き物である。生物として生き残るためではなく、人間として生きる意味を見つける為に獲得した部分もまた、共有されていてしかるべきなのである。

上記はSFではない、ただの仮説に過ぎない。が、美しいと感じる対象には明らかに偏りがあり、美しいと感じるクオリアを、ある者はとても多く感じ、あるものはめったに感じない、という事象の一つの説明となるものではなかろうか。物を美しいと感じ自己が自己のDNAの深層構造に問いかけるという行為は、人類の営んできた大いなる種のうねりを辿る、真理に近づく神聖な、個人を超越した行為である。信教によっては、悟り、神との語らい、預言、、、などがそれらを体験する時に用いられる言葉なのかもしれない。また、それらを一般化すると、愛、という概念が近いもののようにも思われる。そしてそれはまた、次の世代に人類という旅を託し、自らの声明の旅の終わりを祝福する、幸福と快感を伴う儀式のようなものでもある。美しさを感じる事は、幸福なのである。

 

歳を取れば取るほど、美しいと感じる直感が研ぎ澄まされてくる。美術館めぐりでも、のんびりと、楽しみたいものだなあ。