sametimeme's diary

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下流社会の位置づける下流社会をマイルドに言い換え

先日、ニュースでマイルドヤンキーなる言葉を耳にした。

 

http://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%83%BC

現代日本の若者の一類型を表す言葉。2014年1月、博報堂ブランドデザイン若者研究所のリーダー・原田曜平が著書『ヤンキー経済 消費社会の主役・新保守層の正体』(幻冬舎)で提唱した。かつてのヤンキーから攻撃性といった激しさを除いたような性向を持つため、マイルドヤンキーと名づけられた。その一番の特徴とされるのは、上京志向がなく地元で強い人間関係と生活基盤を作り上げ、家族生活を楽しもうとすること。総じて学歴・年収が低めであり、身近な世界以外に関心が低く、出世などの野心が乏しい。家賃を始めとした物価の安さや強固な地縁関係の影響などにより、消費活動はそれなりに活発。新保守層と位置づけることができ、経済のみならず政治・社会構造などの側面でも、日本の趨勢に大きな影響を与えるものとして関心が寄せられている。

なんとなく地元の友人達を連想して、なるほどなと思う反面違和感がとても強い言葉である。

この言葉が指したがっている層は、総じて年収が低めであるというのは同意できる(が、田舎には意外な地主や儲かりまくってる事業主が結構ある点に注意)。だがしかし上記の説明文にもあるように、彼らをよく捉えたキーワードであるのは『消費活動はそれなりに活発』と『家族生活を楽しもうとすること』である。

マイルドヤンキーなる言い方は、大変失礼であると思うのは僕だけではなかろう。もっとグローバルな視点から見れば、きっとマイルドヤンキーと名づけた人達も、日本にしがみつく小ヤンキーのようなものに見えると思うのだが。つーか彼らがマイルドなヤンキーであるとするならば、さしずめ東京で働くサラリーマンなんかは、リビング・デッドと呼んでも良い。

恥ずかしながら、僕もかつてはリビング・デッドだった。

以前、東京でサラリーマンをしていた事がある。毎朝毎朝満員電車で通勤し、仕事は深夜に終わる。飲みに行ってタクシーで帰るというのはまあ普通であったが、会社が外資系であったため、アメリカとの電話会議などは平気で深夜にブッキングされる。だから、飲みに行ってから電話会議出席、それが終わって資料整理と翌日の会議準備で寝たのは4:00、次の日はまた6:30からチェックポイントミーティング…などという、家畜以下のような働き方をしていた。

電車での移動では、リラックスする時間などなかった。席が確保できればあわててPCの電源を入れ資料作りと状況確認、そしてひっきりなしにかかってくる電話対応など、まあ、きっと他人様並の仕事量をこなしていたんだろうと思う。

が、世界に名だたる大都市・東京に住み、そこで働いているとは言え、このような環境を誰が幸せに考えるだろうか。生活費も家賃も地方とは比較できないほど高く、どんなに稼いでも節約意識を持っていないとすぐに大金が飛んでいくような仕組みの都市である。こんなリビング・デッド状態を経験した人間からすれば、マイルドヤンキーな生き方というのは、従来の人間社会生活のあるべき姿のように思えてくるのである。

そもそも、攻撃性などの激しさを取り除いたヤンキー…というのはあまりに主観的すぎやしないか?別にかつてのヤンキーが攻撃性などの激しさにあふれていたわけではないだろう。ただ、原田氏が幼いころにヤンキーと考えている人間属性の一つの主要要素が、暴力などの脅威であったというだけにすぎない。そういう理由で、大変失礼な呼称であると僕は思うのだが、そういう意見を全く見ないのはどういう事なのであろうか。

マイルドヤンキーは、ネット上での社会学のまね事やマーケティングの戯れに付き合っているほど暇でも退屈でもないのである。

 

リビング・デッドは、今日もまた生きながらにして夢を見る。いつか、このまま生ける屍として働いていれば、自分にも人生が楽しくて平穏で幸せな時間がきっと訪れるという、夢である。