お詫びと雑感7 ピアノ・レッスン
さてもさても更新が滞り誠に情けない限りである。
何故滞っていたかといえば、仕事が超忙しくて寝る間も無かった…というのではなく、ここ一ヶ月ほど単にあるピアノ曲に取り組んでいて、それに非常に時間をかけてしまったというだけである。
ピアノのレッスンというのは続けないとなかなか上達しない。ある曲を弾いている時にうまく弾けたという感覚が得られるタイミングはまちまちで、有るときはパートAがうまくいき、ある時はパートBだけ上手くいき…というのであって、なかなか両方うまくいく、というのがないのである。
僕は常々思う。ピアノというのは、ゴルフ同様、メンタルのスポーツである。
難しさと、おもしろさ
ゴルフでメンタルが作用するのは主に重心、それから無意識の筋肉の硬直や弛緩で、それがそのままスウィングに乗り、そのままボールに力が伝わって、スライスなりフックなりしてしまう訳である。同じようなライで、同じように構え、同じクラブを同じように振っても、決して球が同じ所へ飛んで行くわけではない。
それが、ゴルフの難しさでもある。そして当然、それが、ゴルフのおもしろさ、なのである。
ピアノもまた然り。
同じように力を入れて同じようなスピードで弾いても、メンタル次第でいかようにも音色も印象も変わってくるものなのだ。だから、逆に今度はそれらを高いレベルで維持しようとすれば、今度はメンタルをいかに安定させるかということがとても重要になってくる。
弦をハンマーが叩き音が鳴るというのは、所詮は物理運動にすぎない。だが、その物理運動を制御するために、人間はまずその内なる精神を高め、制御しなければいけないのである。
音に乗るもの
例えば、どういうものが音色に影響するか?
それまでどんな遊びをしてきたか。何に悲しみを覚えたか。どんな恋愛をしたことがあるか。どんな本をどれだけ読んだか。文章をどう書くか、絵を描くときどのように書くか。人とどう話し、どう感じるのか。道を歩く時何を思い、どれだけの事に気づくのか。嫌なことをどれくらい忘れ、いい事をどれくらい心にとどめているか。日々の何気ない誰かの一言を心に引っ掛けているか。これからしたいことや夢、食べたいもの、行きたい所があるのか。希望、絶望、喜び、悲しみ、諦め、どの感情の色がどう心のなかで混ざり合ってるのか。
こういうのが、あたかも不覚筋動の如く無意識に身体に影響し、音色にあらわれて来るのである。
なんと、不思議。
ピアノに向かい合うその瞬間、人は否応なくその内面と向き合う必要に迫られるわけである。そしてそれは、例えば禅寺で座禅を組むときのように、例えばティーショット前に静寂に意識を研ぎ澄ませる時のように、例えば荘厳な教会で手を組み目を落とし、神を感じる時のように、心を開き、自分に素直に向かい合い会話する厳かで冒し難い機会なのだ。
僕はこれを、大事にしたいし、大事にしている。
子供の頃は、これがどうも苦手だった。照れ隠しというかなんというか、ハチャメチャに楽しめればいいやと思って弾いていたフシがある。大人になった今は、ようやく素直になる事ができているように思う。
曲
ところで、ここ最近弾いていたのは、ショパンの幻想即興曲という曲である。
通しで弾くのに案外技術的には簡単であったが、表現でとても苦労した。どういう背景で曲が成り立ったのか、とか、どんなピアニストがどんな表現に挑戦しているのか、とか、どういう鳴らし方が僕の心と一番共鳴するのか、だとか。
この曲は誰にも疑いようのない超名作であり、おそらく最も有名なピアノ曲のうちの一つであり、底無しに美しい曲だが、美しく弾くのは本当に難しいのだ。
大人のピアノ・レッスンの楽しみというのは、そういう所を四苦八苦しながらこだわるものであると、僕は思うのだ。