深呼吸せい
ある日、
『呼吸というのは非常に健康によいものである。』
と、突然ゼミの教授が熱弁しだしたのをよく覚えている。歳を取るとそういうふうに言うものなんだなあ、くらいしか気にしなかった僕だが、よもや自分がこの歳で呼吸の重要性に気付かされるとは思わなかった。
深呼吸には様々な効能がある。
自律神経のバランスを整える、精神的な安らぎを得られる、緊張が弛緩しリラックスする、内臓の位置を整え内部の筋肉を鍛える、血行を良くする、などなど、ただの呼吸の癖に身体にけっこう影響するのだ。
僕はある慢性的な疾患を抱えていて、精神的に余裕がなくなったり、何かタスクを放置して捨てようとしている場合だったり、単純に風邪引いた時だったり、その慢性疾患が身体に現れてくる。これがけっこう辛いのだが、意外な事に深呼吸をする事でかなり改善するのである。
自分なりに深呼吸の作法を整えて、静かに精神を落ち着かせて深呼吸をする。それだけで、文字通り目に見えて慢性疾患が引いていくのだから、人間の身体とは不思議なものである。
深呼吸は仕事や作業にもとてもよい効果をもたらす。
人間、わかってはいてもなかなかタスク管理やスケジュール管理というのは完璧にはできないものである。また、管理を完璧にしていたからといって、それらの実行が完璧になるかというのはまた別の話で、山と積まれたタスクを前にして、全てに集中して取り組むというのは常人のできる所ではない。
が、深呼吸をしながら静かに瞑想する事によって、それぞれのタスクをスクラッチから見つめなおし、意外と大したことなさそうな本質が見えてきて、いい意味で力を抜いて取り組む事ができるようになったりする。
般若心経と礼拝
僕は、信心深かった祖父の影響で般若心経を覚えている。その意味も勉強したし、諳んじる事もできる。この経は、物事の本質は空であると看破し、余計なことを思い悩まないよう説いたものであるが、この経の意味するところ、目指す所というのは、すなわち、リラックスである。虚無の世を、明るく生きるための行動指針なのだ。
このように自分の精神と向き合う行為は、現代日本のビジネスマンにはとてもよい習慣のように思えてならない。経を唱え座禅を組み、深呼吸しながら瞑想を30分も行えば、きっと身体はとてもリラックスできるであろう。
かたやキリスト教徒は、週に一度教会に集って礼拝する習慣があるが、このとき、参加者は賛美歌を歌う。ご存知の通り賛美歌とは、多くが4分音符2分音符が並び、音階に忠実な比較的単純な旋律であるが、一音一音を長く発声し、合間では大きく息を吸い込み発声に備える。この賛美歌を歌うという行為が、すなわち禅でいう瞑想、簡単にいうと、深呼吸にあたる部分なのではないかと僕は考えている。
定期的に心と身体をリラックスさせるという意味ではどちらも大変効果的であろう。無神論者は、是非両方共体験してみてほしい。
宗教性など、求める必要はない。神も仏も、人間のちっぽけな好き嫌いや、宗教的対立などはるか見下す高みに居るものである。だが、人間が作った座禅や礼拝という習慣は、人間の性質に根付いた儀式であるので、どちらも良い効果があるものと思う。
深呼吸つかいどころ
ビジネスでは、極度の緊張や恐怖に襲われる場面が多々ある。例えば、大事なプレゼンの直前や初めて合う重要顧客のキーマンとの会話、昇進がかかったミーティング、契約のハンコが押されるその瞬間の重圧、それはもう、イベント盛り沢山である。
そういうとき、勝負を分けるのは平常心、である。余計な感情に気を取られず、やるべきことをやり、言うべきことを言うのが出来る奴というものである。浮ついた状態では必ず失敗する。
武道の世界では、肚が浮くというような言い方をするが、ビジネスでもどっしりと肚を据える事は非常に重要である。だからこそ、プレッシャーを感じた時に、まずは深呼吸で身体を物理的に整え、精神を整える土台を作ることがとても重要なのである。
例えば目の前に絡まり合って複雑な課題が見えたとき、
例えばやるべきことが多すぎて見失いそうになったとき、
例えば遠い道のりをいく自分がちっぽけに見えて自身がなくなった時、
例えば、もう諦めようかなと思った時。
そんなときに、一人静かに深呼吸をしてみてほしい。身体の中を元通りの位置に戻すよう姿勢を整えて、目を半分つぶり、しっかり吸い、息をとどめ、ゆっくり吐き、しばし息をとめる。簡単である。自宅でもいいし、学校でも職場でもいい。もちろん寺でもよいし、ビーチに御座をしいて海の音を聞きながら深呼吸なんてのも、いいかもしれない。
あなたの場所、あなたの時間で 深呼吸。字あまり。